パイオニアの原点 | 朝倉行宣氏
伝統・常識・固定観念にとらわれず「今」を生きる理由

「社会や未来のために活動する人びと」に焦点を当て、活動の原点を探る企画「パイオニアの原点」――第4回として、最新テクノロジーを取り入れながら仏教の教えを現代の人びとに伝えている朝倉行宣氏に、これまでの思いや目指したい社会像を伺いました。

聞き手:川村 健一、若杉 茜

心の動きをつくる

――朝倉さんは革新的な取り組みがメディアで取り上げられていますが、改めて活動内容をお話しいただけますか?

テクノ法要という活動をしております。伝統的な声明(しょうみょう)という読経のメロディにアレンジを加えて現代的な音楽として楽しんでいただき、お寺やイベント会場等で極楽浄土の世界観に触れられることを目的に取り組んでいます。声明を聴いたことのある方ならイメージできるかと思いますが、元々、仏教と音楽は強い結びつきがあります。お釈迦様やその弟子たちが教えを広げようとしたとき、さまざまな知識を「読経」として文字に残す以前に、口伝えに「語る」ことで人びとに広めていました。その過程で経典にリズムやメロディが生まれ、それが声明の原形になっています。テクノ法要は、そのような流れの現代版といえると思います。


――元DJというキャリアをお持ちですが、DJから僧侶になったのにはどういった背景があるのでしょうか?

僧侶になる前の話になりますが、僕が僧侶の資格を取得したのは高校2年生のときでした。その時点では「実家がお寺だから」という感じで仏教自体にそれほど興味はありませんでした。日本では、仏教って人が亡くなったときの暗いイメージがあるように感じています。だから僧侶に対して偏見を持っていて、最初は違う道を目指しました。20歳からDJや照明オペレーターを始めて24歳までその仕事をしていました。上司の一人がある新興宗教に入っていて「これを読みなさい」と教本を渡されました。読んでみると高校や大学で学んだ宗教観と大きくかけ離れていました。それがきっかけで「仏教って何だったっけ?」という興味が湧き、学んでいくうちに仏教の教えとはとても素晴らしい考え方だということに気がつきました。浄土真宗の親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、自分はお釈迦様の教えを伝えるハブでしかないという考え方をされています。DJや照明オペレーターも音楽や体験の素晴らしさを伝えるためのハブのような役割であり、主役は僕ではない――僧侶というのは伝える内容がDJにとっての音楽から仏教の教えに変わるだけで、立場としては同じではないかと思うようになりました。

仏教では「信じる」ということが目的ではなく、結果でしかありません。音楽も「これ、素敵でしょ?」と言われても、自分がそう思わなければ素敵な音楽とはいえない。食べ物も「これ、おいしいでしょ?」と言われても、自分が気に入らなかったらおいしい食べ物ではない。信じるとは「自分がそう思うこと」なのです。「腑に落ちる感覚」が大切であり、そのような心の動きをつくることが教えの本質だと思います。DJ・照明オペレーター・僧侶という言葉だけみると遠く感じますが、僕にとってはどれも心の動きをつくることが役割であり同一線上にあります。

大切なのは本質と向き合うこと

――テクノ法要を始めようと思った動機をお聞かせいただけますか?

25歳のときにお寺に帰ってきて、休日に父親の手伝いをしながら少しずつ僧侶の仕事を始めていきました。住職として皆さんにお披露目したのは2015年です。テクノ法要を始めたのは同年、48歳のときですが、50歳まではサラリーマンをしながら活動をしていました。

「坊主丸儲け」という言葉がありますが、現代は大きく状況が異なります。お寺だけで生活できる僧侶は1~2割くらいだと思います。人口減少に伴い、これからお寺が減っていくのは明らかで、かなり危機的な状況にあります。お寺で行事をしても、それまで熱心にお参りしてきてくださっていた高齢者の方しか来ていなくて、世代交代が全くおこなわれて いません。そのような危機感が、この活動につながっています。


――最初はどんな反響がありましたか?

以前からお参りしてくれる熱心な方々も、とても温かく受け止めてくださって、最初のテクノ法要が終わった後、手を合わせてお念仏を唱える声が聞こえました。そのときに「あっ、これって間違っていなかった」と思いました。

一方で、否定的な声もありました。このように言うと年配の方からの批判が多いだろうと思われるのですが、実際は若い僧侶たちからの反発が大きかった。僧侶の資格を取る際「これが絶対だ」みたいな教え方をされますから「自分が習った“絶対”と違うことをやっている、けしからん」というわけです。
 

――私も仏教というのは伝統こそが全てで「変化してはいけないもの」という固定観念がありました。新たな一歩を踏み出すにあたり心理的な抵抗は無かったのでしょうか?

僕が尊敬している親鸞聖人も、それまでの伝統をことごとく破っていました。今では僧侶も結婚していますが、その当時、一部の宗派には異性に触れてはいけないという戒律もある中で僧侶が結婚するなんてもっての外でした。しかし、そのような時代に親鸞聖人は結婚しています。

親鸞聖人の子孫で8代目の蓮如上人(れんにょしょうにん)という方がいらっしゃって、それまではあまりおこなわれて いなかった御文章(ごぶんしょう)と呼ばれる文書による伝道とか、正信偈(しょうしんげ)にお勤めのメロディをつくったことなどが有名です。

もっとさかのぼると、初期の仏教では偶像崇拝が禁止されていたため、お釈迦様が亡くなってから500年ぐらいの間、仏像は存在しませんでした。シルクロードの交易の中でギリシャとインドの文明が混じり合って生まれてきたものだともいわれていますが、そこにも最初に仏像をつくった人がいるわけです。

日本のお寺で見られる荘厳という飾りつけのスタイルも最初からあったわけではなくて、千年前のクリエイターたちの活動が今の伝統をつくっています。仏様の後ろに「後光」という光を表すような彫刻が施してありますが、その時代に照明器具があって、光でそれを表現できたら、当時のクリエイターたちは道具をうまく活用したと思うのです。

今は伝統の様式だからということばかり大事にする風潮が強く、新しいことが生まれにくい世の中になっていますよね。親鸞聖人、蓮如上人も、当時の常識を打ち破って教えを伝えてきましたが、もし今いらっしゃったら、現状をどう思うだろうか。このように本質を知ることで一歩を踏み出したくなったという側面があります。
 

――ここまで伺っていて、朝倉さんの特異性の一つにオープンマインドがあると感じました。そのようになれたのはなぜでしょうか?

仏教の教えに向き合った結果です。宗派を超えて世界中の仏教で共通している考え方の一つに「諸行無常」があります。全てのものは変化していき、生まれたものは消えていく。伝統も実は諸行無常のうちにあって形は変わっていくものだといえると思います。

また「諸法無我(しょほうむが)」は、物事や人、全ての現象は、周りからの干渉を受け影響を与え合って成り立っているという考え方です。いろんな状況・環境・出会いがあって「今」という現実がある。あるべき姿ではなく、人や社会に対して誠実に、一生懸命生きた結果が「今」という現象に帰結する、それだけのことなのです。

さらに「因縁果報(いんねんかほう)」という考え方もあります。いろんなことが違えば、一つだけ同じことをやっても結果が違うのは当然で、だからこそ自分自身の人生を生きる必要がある。自分中心ではなく、俯瞰(ふかん)しながら今を誠実に考えて生きていくことが大事なことかなと思っています。 

この三つの考え方を知ると、伝統に執着・固執している方がおかしいのではないかと思えてきますよね。仏教では執着こそが苦しみの原因だと考えます。「こうでなければならない」「こうしないといけない」――それが自分の心の自由を狭めている。お釈迦様は伝統の形に縛るなんてことは望まないのではないかなと思っています。

素朴な疑問から、やるべきことが見えてくる

――多くの人びとがマニュアルや既存のルールに従ってしまうような世の中に対して、朝倉さんはどのように感じていますか?

僕自身が心がけていることがあって、それはマニュアル・常識・伝統――そういうものに疑問を持つことです。「やりたいことは何なのか」「本当にこれでいいのか」という素朴な疑問から、やるべきことが見えてくるような気がしています。例えば接客のマニュアルに「人が来たら、いらっしゃいませと言う」と書いてあるとします。「いらっしゃいませ」と伝えたお客様が出て行って、忘れ物をして、また来たときに「いらっしゃいませ」と言うのがマニュアルの言葉です。「どうしました?」と言うのは人間の心の動きから生まれる言葉です。それが考えること・その場や状況に対応することであって、今の状況に適切な対応は何なのか、常に疑問を持たないといけない。マニュアルというのはよい面もありますが、思考を停止させる影響があることも忘れてはいけないと思います。仏教の場合、歴史に名を残す僧侶は、みんな必死に考えてこられた。現実はどんどん変わっていきますから、常にアップデートしていくことが重要だと感じています。

仏教との関わり方を変える

――現状、日本人の信心深さは非常に低いというデータ※1がありますが、朝倉さんはご自身でどのような未来をつくりたいとお考えですか?

二つありまして、一つ目は仏教の素晴らしさを多くの方に感じていただくことです。落語や講談の原形はお寺のお説教だといわれていますし、元来、お寺は体験を重視していたわけです。「お寺、面白そう」「とりあえずお寺に行ってみたい」――そう思ってもらえる世の中にすることが僕の役割であって、そういう場をみんなでつくりたい。一人の僧侶がスーパーマンになる必要はなくて「この人はこんなよい ところがあります」「この人はこっちの方が得意です」――そういう特性を生かす集団になれば、仏教はもっともっと面白くなる気がするのです。

二つ目は仏教との関わり方を変えることです。ヨーロッパやアメリカで仏教に関心を持たれる方々の多くは、自分が悩んだときの「生きる指針」として、仏教の教え・考え方を聞きたいというニーズが多いように感じています。海外のイベントに呼んでいただいたとき、LGBTQ+の方々が多く来ていらっしゃって、話を聞いてみると「男は男らしく、女は女らしく」という考え方に悩んでおられました。「あなたはあなたでいいのですよ、あなたの個性を輝かせましょう」という仏教の考え方を伝えたところ、非常に喜んでくれました。日本でもお葬式とか法事だけじゃなく、「生きる指針」として自分の心を楽にする・悩みを解放していく方向に回帰できると、自信を無くした日本人の心がちょっとでも救われる気がしています。

  • ※1
    第7回世界価値観調査」の「【宗教】あなたの生活に重要か」という質問に対して「重要(非常に重要+やや重要)」と答えた割合は、日本は14.7%で77の国や地域の中で76位。上位・下位の7か国の他、アメリカ、アジア、ヨーロッパなどから複数の国や地域をピックアップして作図しました。

人や社会のために「今」を生きるということ

――人間を中心に考える、固定観念にとらわれない朝倉さんの取り組みが人びとの気持ちを動かしていくようなイメージができました。最後に、未来のパイオニアに対して一言お願いします。

僕は自分のことをパイオニアとは思っていません。自分の評価・在り方というのは相手に任せようと思っていて、僕のことをパイオニアだと思ってくれる人がいたらパイオニアかもしれないし、伝統を壊す厄介者だと思えば、それも僕の一面だと思います。僕には気をつけていることが一つあって、それは「自分で自分のことを決めつけない」ということです。伝統が伝統になり得た理由は、それが素晴らしかったからです。つくった人が「伝統にするぞ」と思ってできるものではなく、後の人が評価してくれたからこそ伝統になっているわけです。

伝統・常識・固定観念にとらわれず「何の意味があるのか」――本質を考えながら誠実に行動すれば、今のオルタナティブが将来はメインストリームになっているかもしれない。人は「今」しか生きられないし「今」しか感じられない。この「今」という瞬間に自分ができること・したいことを、いかにしてやっていくかが大切だと思っています。皆さんも自分が信じたこと・やりたいことに素直になってください。人や社会のために一生懸命・誠実に「今」を生きれば評価は後からついてきますから。

インタビューを通して

『メディア論(原題:Understanding Media )』(1964年)の著者であるマーシャル・マクルーハンは「私たちは新しい状況に直面すると、一番近い過去の事物や様式にしがみつくものである。私たちはバックミラーを通して現在を見ている。」と述べています。予測不可能な時代の今、必要なのは「変わりゆくこと」と「本質的な価値」の見定めであり、羅針盤は「自分の心」にあるのでしょう。心とのたゆまぬ対話が自らの中にある固定観念を溶かし社会に向けた新たな一歩につながっていく――自分の心に対して誠実に生きることの価値を改めて感じました。

Text by Ken-ichi Kawamura
Photographs by Hirokazu Shirato

朝倉行宣 あさくら・ぎょうせん 浄土真宗本願寺派 照恩寺住職住職継承を期待されながら育つが、中高生時代からYMO等の影響を強く受け、音楽に傾倒。大学在学中にDJや照明オペレーターとして活動し、1992年に実家である福井県の照恩寺に戻る。2015年に父から住職を引き継ぎ現職。
読経のメロディをテクノ・ミュージックにアレンジし、プロジェクション・マッピングと掛け合わせた「テクノ法要」を考案。ニコニコ超会議では「超テクノ法要×向源」という企画を2018年から実施し、仏教や神道など、宗派や宗教を超えてさまざまな伝統文化の魅力を伝えている。バーニングマン(アメリカ)、Dharma Techno(フランス)等、お寺以外の場所でもイベント出演や講演をおこない、仏教を身近に感じてもらう取り組みを続けている。
座右の銘は「義なきを義とす(常識や世間の風潮に流されることなく、本質を求めること)」

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