エッジAIでアニマルウェルフェアの実現を目指す
牛の行動データが新たな価値を生む未来とは

牛にもなるべくストレスを与えない飼育を——。
アニマルウェルフェアという言葉をご存知でしょうか。家畜として飼育されている動物たちの状態を監視し、なるべくストレスを与えない管理方法を目指す考え方です。欧米で端を発したこの考え方は世界的な広がりを見せ、日本においても畜産技術協会から2011年3月に「アニマルウェルフェアの考え方に対応した飼養管理指針」が出されるなど、畜産農家に動物の快適性に配慮したきめ細かい飼養管理を求める動きが始まっています。しかし一方で、畜産業を担う人材の高齢化や労働力不足が急速に進み、畜産農家の労働時間は年々増加。そのため、いかに効率的に家畜の状態を監視し、ストレスのない飼育方法を実現するか、頭を悩ませているのです。

この悩みを、テクノロジーで解決することができないだろうか———。最先端のエッジAI技術を活用した牛の行動観察システムの開発プロジェクトは、こうして2018年4月に始まりました。牛の“声なき声”を聞き、発情や出産、病気の兆候を捉えてストレスの少ない環境整備に繋げるこの試み。少ない労働力でどのように牛にとっての快適な生活を実現するのか、そして、牛の行動データが生み出す新たな価値とは。本レポートでは、プロジェクトの背景や目的、開発したシステム、そして私たちが描くこれからの展開についてご紹介します。

ISIDがこの研究・開発に参画するきっかけとなったのは、2017年に東京工業大学准教授の伊藤浩之氏、信州大学農学部准教授の竹田謙一氏とISID戸田和宏の出会いでした。伊藤氏は半導体技術の研究を手がけ、その成果を社会のために役に立てたいとの考えから、研究の傍ら農業・畜産・町おこしなど、様々なフィールドワークに取り組んでいます。その活動の中で出会ったのが動物行動管理学を研究している竹田謙一氏。互いの研究・開発技術を活用して社会課題の解決に取り組み始め、その中で「クラウドを活用する」という話がでたことから、共通の知人を介して戸田と出会いました。こうして、2018年4月、牛の行動観察システムの研究・開発チームが生まれたのです。

今回のプロジェクトは、東京工業大学COI(センター・オブ・イノベーション)地球インクルーシブセンシング研究機構を開発拠点とし、そこで掲げられているコンセプト「地球上のサイレントボイスとの共感」を軸に進められています。地球上の“声なき声”(サイレントボイス)をセンシング技術やIoT、AIを利用することで人間が理解できるようにし、その声に共感して対応することによって、より環境に優しく持続可能な社会を実現していこう、という壮大な取り組みです。その中でも、私たちが取り組んでいるテーマは「動物のサイレントボイス」。牛の“声なき声”を聞き、発情や出産、病気の兆候を捉えてストレスの少ない環境整備に繋げるための研究を進めています。

畜産農家が抱える課題

近年、畜産業界で注目されているのが、飼育されている動物たちにもなるべくストレスを与えない飼養管理の考え方である「アニマルウェルフェア」です。国際獣疫事務局(OIE)のアニマルウェルフェアに関する勧告では「飢え・渇き及び栄養不良からの自由」や「通常の行動様式を発現する自由」等の家畜に関する「5つの自由」が示されており、“放牧”はその実現策の一つになっています。
しかしながら、アニマルウェルフェアに配慮し放牧で家畜を飼育することは、高齢化や人手不足が深刻な畜産農家にとって、作業負荷や対応コストの面で、実現するには多くの障壁があります。

畜産農家は、日頃、自らの経験知から牛の行動を見て健康状態が良いか悪いかを判断しています。例えば、日中長く座っている牛はあまり調子がよくない。病気の兆候であることが多いそうです。しかしながら放牧飼育の場合、細やかに牛を観察することが出来ません。このような知見をシステムに組み込み、牛の行動パターンから健康状態を分析。それをタブレット端末で把握することができれば、日中牛の様子をずっと見ていなくても、すぐに病気や怪我などに対応できるようになります。発情のタイミングや出産の兆候をキャッチしてすぐにサポートに行けるようになれば、畜産農家の方々の負担を下げ、牛にとってのウェルフェアも実現できるかもしれません。

牛は今、何をしているのか。エッジAIが判断

このような社会課題を背景に、私たちは、エッジAIを活用した牛の行動観察システムの開発に取り組んでいます。エッジAIとは、通常はクラウド側で実行されるAIの処理をセンサーなどのデバイスが存在するエッジ側で実行する仕組みのこと。牛にエッジAIが実装された首輪型のデバイス「感じて考える首輪」を取り付け、加速度センサーで動きを計測し、東京工業大学が開発した牛行動AI分析アルゴリズムによって「歩いている」「立っている」「伏せている」「食べている」という行動を判定します。「感じて考える首輪」にはソニーセミコンダクタソリューションズ株式会社のIoT向けスマートセンシングプロセッサ搭載ボード「SPRESENSE™」を採用。SPRESENSEは従来難しかったエッジデバイスでのAI処理と低消費電力の両立を可能にします。

もう一つの大きな課題は通信をどうするかという点です。データをBluetoothで送信しようとすると、通信距離は長くとも100m程度。放牧で利用するとなると多くの受信機が必要となります。そこで低速ではあるものの、通信距離が100km程度のLPWA(Low Power, Wide Area:低消費電力、低ビットレート、広域カバレッジ)という無線技術を活用。さらにエッジ側のAIで判断した行動データのみをクラウドに送るので、データ量も圧縮できます。
エッジAIで判定した「歩行」や「摂食」といった結果だけでなく、温度や湿度などの環境情報もクラウドサービス「FACERE(ファケレ)」に送信。そのデータをさらにクラウド上に開発したAIが解析し、スマホやタブレット端末で詳しい飼育状況を確認、管理できるようになるのです。

FACEREとは、スマホアプリやウェブアプリの制作に不可欠なサーバー環境やバックエンド機能はもちろん、具体的なサンプルアプリとその管理機能が備わったクラウドサービス(Backend as a service)です。自由にカスタマイズできるサンプルアプリも多数備え、実用的なアプリをスピーディーに開発できます。今回、FACEREを利用してLPWAによるデータを受信するインターフェースを作成すると共に、牛の状態や環境情報を蓄積するデータレイクを構築しました。

このプロジェクトでプロジェクトマネージャーを務める伊藤氏は次のように話します。
「今回の仕組みはエッジデバイスからゲートウェイデバイス、クラウドまでの各レイヤーにおけるAI処理のバランスを考慮したシステムアーキテクチャであることが特徴です。これはISIDの方々との共同研究があったからこそ着想できたと考えています。また、エッジデバイス内でもAI処理を行うのですが、低消費電力化を徹底的に追求するところにも研究開発としてのユニークさがあると考えています」

IoT向けスマートセンシングプロセッサ搭載ボード「SPRESENSE™」

進化するAI。地道な作業で教師データを作る

現在、エッジAIで判断できる行動パターンを当初の4種類から10種類以上にするため、デバイスを装着する牛を2頭から8頭に増やし、さらに多くのデータを収集しているところです。

データを収集するといってもそれほど簡単ではありません。首輪デバイスを牛に装着するだけでも、怪我をする恐れがあるほど危険な作業なのです。そこで、牛の生態に詳しい信州大学農学部の学生のサポートを受け、一頭の牛に一人の担当がついて、牛の映像を録画し、秒単位で行動を目視判断するという地道な作業を繰り返します。この画像データと加速度データからエッジAIの教師データを作成し、牛の行動推定モデルとするのです。

機械学習が進むたびにAIの予測精度は上がっていくため、進化したモデルを自動でエッジデバイスに反映させる仕組みも検討中。牛舎に牛が戻ってきたときに何かしらの通信を起動させ、エッジデバイス上のAIのモデルを書き換えるということを想定しています。

では牛の行動パターンが分かるようになると、どのような効果が期待できるのでしょうか。竹田氏はこう話します。
「例えば、乳房炎罹患初期は乳房が腫れて牛は痛いと感じ、立位姿勢が多くなります。痛みのピークが過ぎると、今度は伏臥姿勢が多くなります。定期的な発情が来ると、動き回ることが多くなり、摂食時間が短くなります。私たち人間は、牛を含め、動物たちと言葉で会話することができません。しかし、動物たちの行動のわずかな変化、そして、それらの変化を動物たちの置かれた環境情報と重ね合わせることで、動物たちの状態を理解できるのです」

エッジデバイスを取り付けた牛と状態が把握できるアプリ

牛の行動データを金融にも活用?

エッジデバイスにAIを組み込み、デバイス側でデータを解析、その解析結果をクラウドに送信する。このような仕組みはペットの行動管理や、船舶・車のような移動体等さまざまな分野に横展開ができるのではないかと検討を進めています。

さらに、開発したシステムだけでなく取得したデータについても更なる展開を検討していると、ISIDでクラウドAIとアプリの開発を担当した松島宏明は言います。
「牛のデータが集まるということは、個別の牛の状態が分かるということ。つまり牛の現在価値が分かるので、それを元に畜産農家が融資を受けられる可能性も広がります。また、牛一頭一頭の健康状態が分かれば、これまで経営単位で全頭一括加入が多かった家畜の保険も、それぞれの状態に合わせて一頭ずつかけることができるかもしれません」

ISIDだからできる、つながりの創造

しかし、このシステムを社会実装するには、まだまだいくつもの高いハードルが待ち受けています。
「デバイスを販売し、畜産農家向けにビジネスを展開するのは現実的ではありません。つまり無料でデバイスを配ってでも、ビジネスとして成立する仕組みを作らなければいけない。まずは、デバイスを提供することで畜産農家の皆さんにきちんとメリットが提供できるシステムにすることからですね。また、このようなデータが集まる仕組みをオープンにし、さまざまな業界の方が付加価値をつけて別のサービスとして提供できるような、プラットフォーム化を目指していきたいです」と松島。

また、戸田はこのプロジェクトにおけるISIDの役割を次のように語ります。
「ISIDは多くのお客様とお仕事をさせていただいているので、さまざまなドメインの業界とつながりがあります。今回開発したシステムを利用することで、流通業のお客様と共に牛の飼育状態をブロックチェーンで可視化し牛乳や牛肉の価値を判定する仕組みを構築することも構想しています。また、アニマルウェルフェアの指数によって牛のブランディングもできるようになるでしょう。私たちにはこれまで遠い存在に思われていた異業種を結びつけることにより、新たな価値を生みだすお手伝いをする役割があると思っています」

牛の行動データは、畜産業界だけにとどまらず、金融や流通などの分野でも、新たな価値を生む可能性があります。また、エッジAIとクラウドを組み合わせたシステムも、これからさまざまな分野で活用とされることになるでしょう。このプロジェクトは、その可能性を追求するものとなるはずです。

2019年10月更新